onoshin blog

メンタルにまつわる自己理解について

あの頃、パワハラなんて言葉はなかった

中学時代のサッカー部の話。

Jリーグが開幕してサッカー人気が爆発的に高まっていたのもあり、サッカー部に入部希望者が殺到した。

誰もがボールを持てばまたぎフェイントを繰り出し、ゴールを決めるとカズダンスを踊った。

そんな時代。

練習中は給水タイムなどなく、隙をみてはグランドに転がった生ぬるいペットボトルの水を争うように奪い合った。水ばかり飲んでいれば怒られる、いわゆる水を飲むなと言われた世代。

パワハラ」なんて言葉はなかった。

あれは中学1年の夏の終わり。3年が引退した頃。
顧問のF先生に呼び出され、サッカー部員は全員教室に集まった。

何事か?明るい話ではない。ただならぬ雰囲気だ。
なぜかスパイクを持って入ってきたF先生が口を開く。

「この中にタバコを吸っていた奴がいる。心当たりがある奴は前に出ろ」

静まり返る教室。
なぜ全員集められたのか理解した。

2年の先輩が1人、また1人と観念したように立ち上がっていく。同級生も数名続いた。

連帯責任で無実のキャプテンも前に出された。

1人ずつ質問される
「吸ったのか?」

「はい、吸いまし…」

バチーン!!

スパイクで殴られた。もちろん裏で。

間髪いれず腹に前蹴りが飛ぶ。
小柄な奴は軽々ふっ飛ぶほど強烈な前蹴り。

スパイクで次々に殴られていく。

無実のキャプテンも殴られる。
頬にスパイクの跡が残り、真っ赤に腫れていた。

みんな泣いている。
中学生にとってこれは事件だった。
あの衝撃的な出来事をみんな忘れることはないだろう。

「お前あのとき5mはふっ飛んでたよな?」
笑い話になるのは後のはなしだ。


「全員坊主にしてこい。できない奴はサッカー部を辞めていい」

部活を続けたいなら坊主になる。
それが条件だった。

F先生は顧問でありクラスの担任でもあった。
だからどんな先生かは解っている。

One for all All for one
(ひとりはみんなのために みんなはひとりのために)

それがモットーである。いわゆる熱血教師とまでは言わないが、まっすぐで熱を持った先生だ。
厳しいが怖くはない、基本的には優しい先生。

なぜスパイクだったのか?
平手でも良かったのではないか?

次の日曜日、私たちはまるで夏祭りにでも出掛けるかのように、みんなで待ち合わせて理容室へと向かった。

丸刈りになった姿を見て互いに笑い合う。
迷いはなかった。


結果、辞めたのはわずか1人だけ。サッカー部は全員坊主になった。先生も坊主になっていた。


スパイクで殴られ坊主にされる。
今ならありえないことかもしれない。
どちらかと言えば保護者が黙っていないだろう。
激しいクレームがあってもおかしくない。

でも、悪いことをしたから怒られた。
それだけのことだ。

坊主も強制されたのではない。選択肢を与えられて、自分達が選んだ。


先生が本気で伝えたかったことを、私たちは本気で受け取ったのだ。

One for all All for one

ひとりで生きてるんじゃない。
自分の行動は周りに影響するのだ。
だから自分の行動に責任を持て。

そんなメッセージが込められたスパイクに、
私たちはぶん殴られたのだ。

なぜスパイクだったのか?
それは先生の覚悟だったのではないかと思う。

平手で殴るよりもっと酷い、抗議されたら言い訳できないほど非道な方法で。教師を辞めることになっても仕方ないという覚悟を持って、本気で指導したかった。伝えたかった。

そんな想いだったのではないか。


側から見れば、現代ならパワハラと言われるかもしれない。

「そんなつもりはなかった。愛情を持って指導しただけだ」

自分の保身を考えるだけの言い訳なのか、
覚悟と熱を持って本気で向き合おうとしたのか。

25年前も現代でも、
それは子どもたちが一番よくわかっている。


数年前にF先生は中学校の校長になったと聞いた。
きっと今では時代遅れの、あの時の熱を今でも持ち続けているはずだ。