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メンタルにまつわる自己理解について

千利休の『侘び』の精神

茶聖・千利休

千利休は歴史上、とても興味深い人物です。

堺(大阪)の商人の家に生まれ、茶の道に入ったのは17歳のとき。23歳のときには「茶の湯」と呼ばれる茶会を開催するなど、茶人としての修行を積みながら、家業を継いで堺の商人として暮らしていました。

当時茶の湯というのは政治に大きな影響を与えるものであり、織田信長も関心を示し、みずからも茶道に打ち込んだそうです。信長は領地や金ではなく茶器を褒美に与えるほど、茶器の価値を高めました。「名物狩り」と称して堺で貴重な茶器を買い集め、高価な名物道具を茶会で披露することで富と権力を誇示しました。この政策に千利休も大きく関わり、茶頭(茶会を仕切る役職)として信長に仕えるようになりました。

茶聖・千利休が歴史の表舞台に登場するのはここから、50代になってからのことです。

豊臣秀吉との蜜月

織田信長の死後、豊臣秀吉も利休を信頼し、茶頭として重用するようになりました。秀吉も天下人に登り詰めていく過程で活用したのが茶会であり、それを任されていたのが利休だったわけです。

秀吉が利休と共に開催した大規模な大茶会「北野大茶湯」は今でいう音楽フェスのようなもの、いわば「茶の湯フェス」です。その一大イベントの演出を任されるほど、秀吉は利休を信頼し、ふたりの関係は強固なものとなっていました。


しかし、ふたりの追求するものには決定的な違いがあったのです。

なぜ秀吉は切腹を命じたのか?

「黄金の茶室」を作るなど、絢爛豪華を好む秀吉にとって、茶の湯は自身の権威を知らしめるためのものでした。

一方で、利休の追求した茶の湯とは、質素に徹する侘び茶でした。利休がつくり上げた茶室「待庵」は、わずか二畳のスペースの狭くて暗いシンプルな茶室。それが利休の追い求め続けた空間美の完成型だったのです。その計算し尽くされた構造は、画期的な茶室として以降スタンダードになっていきました。利休が確立した茶室の型は、現代にまで伝わるものとなりました。

こうした価値観の違いから徐々に意見も食い違い、秀吉と利休の関係性はしだいに悪くなっていきます。また、利休は人望も厚く多くの武将に慕われていたことも、秀吉にとっては面白くないことであったと想像できます。

そしてついに、秀吉は利休に切腹を命じました。千利休切腹により70歳で生涯を終えることとなったのです。

なぜ秀吉は利休に切腹を命じたのか?

これには諸説あり、理由は定かではありません。歴史上の謎です。しかし千利休という人物を調べていくうちに、こんな考えが浮かんできます。


千利休のセンスと人望に秀吉が嫉妬したから。


天下人である秀吉を上回る実力を持ってしまった。
だから切腹を命じられたのではないか?

そんな風に思えてくるのです。
それほど魅力的な人物だったのではないかと考えると、千利休はとても興味深い人物ですね。

利休の侘びの精神をもっと知りたくなります。
茶道もいつかやってみたいですね。